オットリーノ・レスピーギ

オットリーノ・レスピーギ, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=4556 / CC BY SA 3.0

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オットリーノ・レスピーギ

オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi, 1879年7月9日 – 1936年4月18日)は、イタリアの作曲家・音楽学者・指揮者。ボローニャ出身で、1913年からはローマに出て教育者としても活動した。1908年までは演奏家、とりわけヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者として活動したが、その後は作曲に転向した。近代イタリア音楽における器楽曲の指導的な開拓者の一人としてつとに名高く、「ローマ三部作」と呼ばれる一連の交響詩(《ローマの噴水()》、《ローマの松()》、《ローマの祭り()》)が広く知られる。16世紀から18世紀の音楽に対する関心から、古楽に基づく作品も遺した。

ボローニャに生まれ、地元の音楽教師だった父親からピアノとヴァイオリンの指導を受ける。1891年から1899年までボローニャ高等音楽学校においてヴァイオリンとヴィオラをフェデリコ・サルティに、作曲をジュゼッペ・マルトゥッチに、音楽史を、古楽の専門家ルイージ・トルキに師事。1899年にヴァイオリン演奏でディプロマを取得すると、1900年から1901年までと、1902年から1903年までの2度のシーズンにわたってロシア帝国劇場管弦楽団の首席ヴィオラ奏者としてペテルブルクに赴任し、イタリア・オペラの上演に携わった。ペテルブルクではニコライ・リムスキー=コルサコフと出逢って5ヶ月におよぶ指導を受け、その精緻な管弦楽法に強い影響を受けた。多くの資料では、さらに1902年にベルリンで短期間マックス・ブルッフの薫陶を受けたとされているが、エルザ未亡人はこの説を事実ではないとして否定している。その後ボローニャに戻り、作曲で2つめの学位を取得した。1908年までムジェッリーニ五重奏団より第1ヴァイオリン奏者に迎えられている。1908年から1909年までベルリンに滞在し、演奏家や、声楽教室のピアノ伴奏者として稼ぎながら音楽的な知見を広げ、イタリア人以外の作曲家にも開眼した。

ようやく帰国すると作曲に没頭し、自作のカンタータ《アレトゥーザ()》(1911年)のピアノ伴奏版の作成に熱心に打ち込む。

ボローニャ高等音楽学校に定職が得られることを要望するも果たせず、やっと1913年にサンタ・チェチーリア音楽院作曲科教授に任命されてローマに移住し、以後最晩年まで同地にて暮らした。1917年に交響詩《ローマの噴水》をローマで初演するが成功せず、自信を喪失するが、1918年、アルトゥーロ・トスカニーニによるミラノでの再演が大成功をおさめ、作曲家としての突破口を切り開くことができた。1919年に、1915年からの門弟で、声楽家でもあったエルザ・オリヴィエリ=サンジャコモと結婚する。

1923年にはサンタ・チェチーリア音楽院の院長に就任し、1926年にも再び院長に任命されたため、十分な時間を作曲に充てることができなくなった。それでも1935年まで教職に就き、1925年にセバスティアーノ・アルトゥーロ・ルチアーニと共著で初歩的な教則本『オルフェウス()』を上梓した。1932年にはイタリア王国学士院の会員に任命された。

晩年は国内外で自作の上演のため何度も演奏旅行に出ており、指揮者を務めたり、ピアニストとして声楽家であるエルザ夫人の伴奏を務めたりなどした。レスピーギの作品はファシスト政権にも非常に好評であったが、レスピーギ自身はまだファシズムに深入りしてはいなかった。後半生はベニート・ムッソリーニのファシスト党とぎこちない関係を続けた。それでもトスカニーニのような明け透けな党の批判者の支持も得て、批判者が自作を上演することを認めた。《ローマの祭り》の初演は1929年にトスカニーニの指揮するニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって行われた。初録音は1942年にフィラデルフィア管弦楽団、再録音は1949年にNBC交響楽団によって行われ、いずれもトスカニーニの指揮であった。

レスピーギの作品はアメリカ合衆国でかなりの成功を収めた。ピアノと管弦楽のための《トッカータ》は1928年11月にカーネギーホールにおいて、作曲者自身のピアノ独奏とウィレム・メンゲルベルクの指揮、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって初演されている。大規模な変奏曲《メタモルフォーゼ(”Metamorphoseon”)》はボストン交響楽団創立50周年記念の依嘱作品であっ…

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