クラウディオ・アバド

クラウディオ・アバド, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=335525 / CC BY SA 3.0

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クラウディオ・アバド

クラウディオ・アバド(またはアッバード、Claudio Abbado, 1933年6月26日 – 2014年1月20日)は、イタリア・ミラノ出身の指揮者。

1933年に、ミラノの音楽一家に生まれる。父のミケランジェロ・アバドは、イタリア有数のヴァイオリンの名教育者であり、ヴェルディ音楽院の校長を務めた。19歳の時には父と親交のあったトスカニーニの前でJ.S.バッハの協奏曲を弾いている。

ヴェルディ音楽院を経て、1956年からウィーン音楽院(現ウィーン国立音楽大学)で指揮をスワロフスキーに学んだ。1959年に指揮者デビューを果たした後、カラヤンに注目されてザルツブルク音楽祭にデビューする。ベルリン・フィルやウィーン・フィル、シカゴ、ドレスデンなどの桧舞台に早くから客演を重ね、確実にキャリアを積み重ねていく。

1968年にミラノ・スカラ座の指揮者となり、1972年には音楽監督、1977年には芸術監督に就任する。イタリア・オペラに限らず広大なレパートリーを高い質で提供しつつ、レコーディングにも取り組んだ。スカラ・フィルハーモニー管弦楽団を設立してオーケストラのレベルを格段に上げたことは特筆される。ウィーン転出を機に1986年に辞任する。なお、アバドはイタリア・オペラでもプッチーニやヴェリズモ・オペラは取り上げないなど、独自のこだわりを持っている。一方では、1960年代までは「セビリアの理髪師」以外は上演機会が少なく存在感の薄い存在だったロッシーニを積極的に再評価し、いわゆるロッシーニ・ルネッサンスの立役者の一人となった。

イギリスでも1979年に、ロンドン交響楽団の首席指揮者、1983年には同楽団の音楽監督となった。レコーディングはさらに増え、楽団員と良好な関係を築きオーケストラのモチベーションを引き上げることに成功する。押しも押されもせぬ世界のトップクラスに躍り出て、いよいよ黄金期を迎えるかという矢先、アバドが契約延長をしないことを発表した。楽団員は延長を望んでいたこともあり、失望は大きかった。その後、再演の目処は立っていない。

1986年には、ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任し、音楽面に専念する形でグローバル化を図った。ムソルグスキー等のオペラを頻繁に取り上げ、レパートリー拡充に尽力した。また、必然的にウィーン・フィルとの共演も増え、ベートーヴェンの交響曲全集など数々のレコーディングが実施された。しかし伝統を重視するエバーハルト・ヴェヒターが総監督に就任すると、1991年に辞任した。

1990年、マゼールなど他に様々な有力指揮者らの名前が挙がった中、カラヤンの後任として選出されベルリン・フィルハーモニー管弦楽団芸術監督に就任し、名実共に現代最高の指揮者としての地位を確立した。ベルリン・フィルとの組み合わせでの初来日は1992年(同行ソリストはムローヴァ、ブレンデル)。同芸術監督には2002年まで在任した。アバド時代のベルリン・フィルについて、アバドの音楽的功績や指導力については評価はかなり様々である。これは後任のラトルとの比較などにおいて、次第に定まってくるであろう。在任年間の後期の成熟期におけるベルリン・フィルとの録音として、ベートーヴェン交響曲全集(2回目・3回目)や、ヴェルディのレクイエム、マーラーの交響曲第7番・第9番、ワーグナー管弦楽曲集、等々がある。現代音楽もいくつか録音されており、世界最高の名器たる実力を余す所なく披露している。

2000年に胃癌で倒れ、以後の活動が懸念されたが、手術を受けて健康状態は持ち直し、ベルリン・フィル辞任後も新たな活動を続けていた。2003年以降はルツェルン祝祭管弦楽団などや、自身が組織した若手中心のオーケストラ(マーラー室内管弦楽団、モーツァルト管弦楽団等)と活動することが多かった。ベルリン・フィルへも定期的に客演を行っているが、ウィーン・フィルとは、同団特有のローテーション制(リハーサルと本番で違う奏者が出てきたりする)に関する意見の相違から、疎遠となっていった。2006年にルツェルン祝祭管弦楽団と来日、ルツェルン・フェスティバル・イン・東京の一環としてサントリーホールにてオーケストラ公演が行われた。夏…

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