ヨーゼフ・ハイドン)の100余曲の交響曲全曲を録音する、という偉業を最初に成し遂げたのは、アンタル・ドラティとフィルハーモニア・フンガリカ、というのが定説、いや、定説だった。
1969年から72年という比較的短期間に集中して録音され、押しなべて出来に波がなく、何しろこれまで聴いたこともないようなハイドンのシンフォニーを全部聴いてみようと思えば聴ける、というのは音盤史上において特筆すべき出来事だった。
とにかく「ハイドンという人は、面白い手業を持っている人だったんだなぁ・・・」と思いながら、交響曲という形式の中に様々な命を与えていく、その手際の良さ、でも決してルーティンではないその仕事ぶりに感心した。
ハイドンの交響曲を様々聴き進めていくのが大きな喜びとなった。
そして今では、指揮活動を断念せざるを得ない災難に襲われたトーマス・ファイの無念と全集録音がとん挫したことを嘆き、ジョヴァンニ・アントニーニの全集録音が、クリストファー・ホグウッドの時のように「儲からない」という理由でプロジェクトが凍結されないように祈り(アントニーニ盤の立派な装丁を見るにつけ、ホグウッドの二の舞だけは勘弁、と思い)、飯森範親と日本センチュリー交響楽団の「ハイドン・マラソン」にせっせと通い、マラソン完走と同時にCD全集完成を願うばかりだ(こちらはかなり現実味を帯びてきた)。
さて、「史上初のハイドン交響曲全集はドラティ盤」というのは、日本でもここ数年で誤りだった、と広く知られるようになった。
それは、1960年代にエルンスト・メルツェンドルファーとウィーン室内管弦楽団によって全集録音が行われ、LP49枚の単売でリリースされていた事実が明るみになったからだ。
ドラティの全集が完成される10年弱前に完成していたにもかかわらず、何故その存在を知られていなかったのか?
100年以上も前のことならともかく、情報社会の時代に、誰も「ドラティさんよりもメルツェンドルファーさんの方がお早いんですわよ」と言わなかったのか?実に不可思議だ。
理由はいくつか考えられる。
1.メルツェンドルファー盤はアメリカの会員制レコードクラブ、Musical Heritage Society(MHS)からリリースされ、発売当時は会員以外には流通していなかった。
生産枚数が少なく、当然セールス・プロモーションも行われていなかったし、アメリカ以外に盤が流出することもなかった。
2.アメリカ本国でもその演奏にあまり高い評価が与えられなかった。
3.ドラティ盤をリリースしたイギリスのDECCAが、MHSのメルツェンドルファーのプロジェクトを知らずに、「史上初のハイドン交響曲全集ですよ~!」と派手に宣伝した。
もしかしたら知っていたのかもしれないが、ビジネス・チャンスを潰さないためにも嘘をついていた。
こんなところだろうか・・・。
いずれにしてもメルツェンドルファー盤は注目されていなかった。
しかし、ネット時代、ありとあらゆるアナログレコードがイーコマースで売買され、音盤やアーティストの情報、データをいとも簡単に入手することができるようになった昨今、この史上初のセットの存在が明るみになってきた。
そして、数年前にはMHSのオリジナル盤を盤おこし(レコードプレーヤーで再生し録音)したデータによってプレスされたCD BOXがリリースされるまでになったのだ。
さて、私はこのメルツェンドルファー盤の存在を7、8年前に、よく覗いていたアメリカのWEBショップで知った。シリーズの内、10枚程度が1枚3ドル弱で売られていた。
メルツェンドルファーの存在自体は知っていた。ドイツ・グラモフォンに協奏曲の伴奏をしたレコードが何枚かあったからだ。
中でも印象深いのが、彼が1953年から58年に常任指揮者を務めていたザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団の首席奏者であるルドルフ・クレパックをソリストに迎えたモーツァルトの『ファゴット協奏曲』。
そんなメルツェンドルファーが、ハイドンの交響曲を録音している、しかもある程度まとまった曲数を・・・。
この時点では全集として完成していたとは思ってもみなかったが、よくよく調べてみるとMHSのOR H-201~249という品番で、49枚にわたり104曲+協奏交響曲+交響曲A&Bを録音していることがわかった。
モーツァルトであれだけの名演を残しているのだから、ハイドンだって・・・、というのが人の情けというものだ。
取り敢えず売りに出されていた10枚余りを購入してみた。1枚3ドル弱、ハズレでもダメージは少ない。
そもそも、エルンスト・メルツェンドルファーとはどういう指揮者なのか?
彼は1921年に生まれ、2009年に亡くなったオーストリアの指揮者。
かのクレメンス・クラウスの弟子だ。
同じくクラウスの弟子だったオトマール・スウィトナーが1922年生まれなので、なんとなくメルツェンドルファーのイメージをつかんでいただけるであろうか。
年齢的にはいわゆる「歌劇場叩き上げの指揮者」最後の世代で、実際にベルリン国立歌劇場、そしてウィーン国立歌劇場でカペルマイスター(楽長と訳されるが、実際は音楽監督や首席指揮者の次に位置する劇場専任指揮者、第一指揮者)として活躍した。
特にウィーンでは、1960年から2000年(79歳)までの40年間もカペルマイスターの任にあった。
ウィーン・オペラのように、ほぼ毎晩オペラやバレエがレパートリー・システムで上演される歌劇場では、カペルマイスターは数多くのレパートリーを手際よく、ただし質を落とすことなく指揮しなくてはいけない。職人業だ。
メルツェンドルファーの少し先輩で、同じくウィーン・オペラで獅子奮迅の活躍をした指揮者にハインリヒ・ホルライザー(1916-2006)がいる。
1980年、ウィーン国立歌劇場、初の日本引越公演があった折、カール・ベームやホルスト・シュタインらと共に来日し、ベームと分担して『フィガロの結婚』を指揮したので、それをご覧になった方もいらっしゃるかもしれない。
現在でもそうだが、ウィーンはじめヨーロッパの一流歌劇場のレギュラー公演を観に行っても、日本でよく知られている、CD録音なども行っている指揮者に巡り合う機会はたいへん少ない。音楽監督や知名度のある指揮者はプレミエ(新プロダクションの初日公演)、シーズン開幕や要所要所のタイミングにしかお出ましにならない。
オペラハウスを実質的に支えているのは、メルツェンドルファーやホルライザーのような指揮者たちなのだ。
資料によると、例えば1967年から68年のシーズンにおいて、メルツェンドルファーがウィーン国立歌劇場で指揮したオペラはこんな感じだ。
9月 マスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』
12月 アイネム『ダントンの死』
1月 モーツァルト『魔笛』、ヴェルディ『椿姫』
2月 R.シュトラウス『エレクトラ』
3月 グノー『ファウスト』
4月 ヴェルディ『椿姫』
6月 グノー『ファウスト』、ヴェルディ『リゴレット』
翌68年から69年のシーズンも凄い。
10月 ヴェルディ『リゴレット』
11月 ヴェルディ『ドン・カルロ』
12月 アイネム『ダントンの死』
1月 プッチーニ『蝶々夫人』、ヴェルディ『リゴレット』
1~2月 オッフェンバック『ホフマン物語』
2月 プッチーニ『ボエーム』
3月 プッチーニ『蝶々夫人』
5月 ワーグナー『ローエングリン』
さて、そんなウィーンの職人指揮者で、モーツァルテウムの首席指揮者でもあったメルツェンドルファーに目を付けたのが、MHSのプロデューサーで、それ以前は同じくアメリカのレーベル、WESTMINSTERのプロデューサーであったクルト・リストだ。
有名なハンス・クナッパーツブッシュとミュンヘン・フィルハーモニーのブルックナー『交響曲第8番』は彼がプロデュースした。
第二次世界大戦後、1950年代に突入した頃、敗戦時はドイツの属国であったオーストリアの首都、「音楽の都」ウィーンにおいて、アメリカをはじめとするレコード会社が多数乗り込んで、地元アーティスト、つまりウィーンの一流演奏家を起用して、レコーディングを次々と行っていった。
よく知られているWESTMINSTER(ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団、バリリ四重奏団、ヘルマン・シェルヘン・・・)やVANGUARD(フェリックス・プロハスカ等のバッハ・カンタータ・・・)の名盤はこうして生まれた。
当時、オーストリア通貨シリングが固定相場制の通貨改革で価値が下落し、アメリカ人をはじめとする外国人のウィーンでの生活費、そしてオーストリアの演奏家に支払うギャラがドル換算で半分以下となっていた。
戦勝国アメリカのレコード・レーベル各社はそこに目を付け、ウィーンに進出した。
「戦争に勝ったものの、文化までを手に入れることはできなかったアメリカが、必ずしも恵まれた生活を送っていなかったウィーンの一流音楽家のレコードを作り、ギャラを支払う」という、歴史的悲劇であった大戦がもたらした数少ない「顛末としての功」がここにあった。
さらにウィーンには名演奏家がいただけでなく、音楽的資料もたくさん保存されていて、ここを拠点にレコード録音・制作を行うことは理にかなっていたのだ。
現在も高値で取引されているヴァルター・バリリ(ヴァイオリン)やレオポルド・ウラッハ(クラリネット)の名盤はこうした状況で生まれたわけだ。
特にハイドンの作品については、後にドラティの交響曲全集を監修するハイドン研究家、ロビンス・ランドンがウィーンに居を構え、レーベル「ハイドン・ソサイエティ」で積極的に録音を進めていったという経緯があった。
1960年代になってもその構造はしばらく続き、MHSがメルツェンドルファーとウィーン室内管弦楽団を起用して、ハイドン交響曲全曲録音のプロジェクトをおこし、完成させたのである。
10枚ちょっとを購入した後も、見かける度にメルツェンドルファーのハイドンを買い足していった。5ドル以上したレコードは1枚もない。
そして、現時点で49枚中43枚まで手中に収めた。無いのはVol.7(第20番&第21番)、Vol.8(第22番「哲学者」&第23番)、Vol.11 (第29番、第30番&第37番)、Vol.20(第48番&第49番)、Vol.24(第56番&第57番)、そしてVol.41(第90番&第91番)の6枚だ。
第22番と第90番が手元にないのは、個人的には「痛い」・・・。
もちろん、盤おこしされたCDを買っていれば聴くことはできたわけだが、そこは「意地」だ。CD BOXは購入しなかった。そしてすぐに廃盤になった。
正直、録音は1960年代であることを割り引いても、決して満足できるものとは言い難い。アメリカ市場を意識して、アメリカでプレスされた盤が故の潤いの無さ、粗さがある。
演奏もハイドン研究がさらに深まり、ピリオド全盛時代の現代と較べれば生温い感は否めない。
メルツェンドルファーより少し前、同じくアメリカのレーベル、Library of Recorded Masterpiecesが、マックス・ゴバーマンとウィーン国立歌劇場管弦楽団を起用し、全集完成を目指したにもかかわらず、ゴバーマンの急逝により45曲でストップしてしまったプロジェクトの方が、よりモダンである。
しかし、である。
ウィーンのカペルマイスターであったメルツェンドルファーらしい、見通しが効いた明快さと分かり易さ、ウィーンという町が築いてきたであろうハイドン演奏の伝統のようなものを感じる。
気は利かないけれど、聴けば聴くほど馴染んでくる、愛着が増す親しみがある。
そういう意味ではドラティとフィルハーモニア・フンガリカの録音と似ていなくもない。
要はメジャーレーベル「DECCA」とマイナーレーベル「Musical Heritage Society」の違いが明暗を分けているだけのように思えてくる。